最近、ふとfacebookについて考えて見ることが多くなった気がする。
SNSというわけではなく、facebookについて。
なぜは自分でもよくわからない。
よくわからないから、一回考えていることをざっと書き出して見て、
少し整理してみようと思う。
そもそもFBはいつ使い出したか?FBを使い始めるまではどんなSNS使っていたか?
自分がFBをいつ使い出したのか?から、考えてみる。
FBを見ると2006年1月1日にプロフィールの編集履歴がある。
あるが、その頃はmixiを主に使い出した時だったし、サービスを知っていたかすら怪しい時期、、
なので、おそらく2009年くらいあたりから投稿がちょいちょい見られるので、その頃から登録していたのだろう。
SNSという括りで言えば、mixiが最初の利用SNSであった。
この時は、大学生ということもあり、それまでの友人と繋がったり、新しい友人と繋がったり、気になる人の近況を見たりすることが楽しかった。
そして、自分が思ったことを気軽に書いてリアクションをもらうのが楽しかった。
そこからおそらくTwitterを次に主に使い出した。Twitterでは気軽に発言したり、気になる人の発言を仕入れて来たり、お気に入りに登録したり、そして何よりもリツイートという革命的なアルゴリズムに惹かれて割りと利用していたと思う。
そこから、いいね!ボタンが普及して、FBの便利さに気づき、FBを主に使い出した。この頃がおそらく2009年〜2010年くらい。
映画「ソーシャルネットワーク」を映画館で見るまでに半年くらいしか差がなかったようにも思う。
いいね!ボタンによって作られるインタレストグラフ(当時こんな言葉を考えてはいなかったり、そんなに普及してもいなかった)、いろんな人と手軽に繋がれつつ、メールよりも敷居低く、繋がっている人へメッセージを送れる便利さもあり、FBは僕の中で一番使うSNSへとなっていたと思う。
ただこの頃にFB、というかSNSに対して思っていたことがあって、その中でも記憶に残っているもの(もしくは今でも思っていること)がいくつかあった。
1つ:
FBは実名で使っていたし、基本実名で使うことが推奨されていた(る)。
だからこそ、より知り合いが増えていく感覚が楽しかったし、旧友との出会いを電子的に果たせる場としての有効性も高かった。
その反面、FBは自分の中で役目を終えて区切りが存在することを知っていた。なぜか?
FBやmixiには割りと自分の考え、それこそ恋愛関係含めて多くの近況を載せている時期だった。思春期のそんな雑多な感情を文字として表しているSNSであったけれども、そんなものを個人的には親族、とりわけ親に見てほしくないという感情が強かった。
そして、先に子供を授かった場合、子供に見せるのも恥ずかしいと思っていた(今でもだけど)。
ということは、自分がSNSを積極的に活用する時期は限られてくる。利用しているサービスへ、親かまだ見ぬ子供が入ってきた時、自分の中でのSNSの役目はきっと失われる。というか、失わせたい。つまりサービスが大きくなればなるほど、自分のFB寿命は短くなっていくようなものだということ。mixiは匿名で使っていたから、FB程には消失させるものがそんなにはないだろうけど、公開範囲を定められる機能もそんなに充実はしていなかったし、している今でも、おそらくこの点には代わりがない。だって性格上、わざわざ公開範囲を整理するのなんて絶対いやだからね。
2つ:
SNSの関係性。mixiとFB、Twitterが個人的なSNSの3大巨頭だった。
中2くさい言葉で言ってしまえば、この2つはパラレルワールドだった。
半匿名活動で動く世界mixi。完全実名で動く世界FB。
そしてその2つの世界を行き来したり、つなげる空間としてTwitter。こんな感じで3つのSNSをなんとなく位置づけていた。
mixiではちょっと公言できないような内容を公開していて、FBでは公言できる範囲の内容を公開していて、ニュース記事なんかをシェアしたりしていた。そう、ちょうど本音と建前という関係の様に、2つのSNSが合わさって1つの人格となっているような関係だった。
その2つの精神世界とリンクする形で、Twitterを使っていたりした。
サービス的な関係でいえば、mixi ⇔ twitter ⇔Facebook というような感じでアカウント連携していた。Twitterに投稿した内容は、mixi、FB両方に投稿されていた。2つの世界それぞれに住んでいる住人に一気にメッセージを送るブロードキャストの様な役割としていたわけだ。
こんな感じで3つのSNSの関係が自分の中では朧気にでもできあがっていた。
3つ:
Instagram、Tumblr、Google+、Path、、、いろんなSNSが乱立してきた。それぞれに特徴があって面白かったけど、ここでサービスとは目的とインターフェース(UI/UX含め)の違いがほぼすべてではないか?とかんがえる様になってきた。
ということは、この先いろんなSNSが出来上がってくるだろうし、いつか「使っていたSNSによって年代がわかる」的なスレッドが立ったりする時代がくるのだろうか、、?とか思ったりもした。けれども(だからか?)自分は基本的には上の3つのSNSを主に使うことを選択した。そして、それが現実になるならば、1つ目の様なことにはならないかな?とか、いやいや、いいね!とかリツイートの構造がある以上、FBとTwitterはライフライン的に広く使われる存在になりそうだから、やっぱり1の様な事になるのかな、、とか考えたりして、未来を早く見てみたいという気持ちがにじみ出てきてりしたw
4つ:
SNSは、そもそもの「人間性」をデジタル化したものであって、決してシステム化してしまうことができない部分を請け負ったデジタル・サービスではなかろうか。それは人間というか、利用している個人そのものであって、これらを解析すること、もしくは一つに集めて他人が見るとその人の本質を知ることができるようになるのではないか(もちろん退会してしまったりするだろうし、そういうことが主流というか一般的になればきっと偽ることが目的化してしまうサービスになるだろうけど)
SNSの寄せ集めに、将来旅立つとき、その人の価値が凝縮されたものになってしまうのではないか
数年前くらい前(から)、ずっとこんな事を考えてはいた。幸いにも今までやめたSNSはないけれども。
そして最近、主にFBのみの更新になった現在、思うことも出てきた。
FBは、マズローの欲求5段階説(6段階)の、3段階社会的欲求あたりから上位を実現するための手段なのではないか?
(http://matome.naver.jp/odai/2138276425484692401/2138276782786495903)
というくらい、今日どこどこに言った、何何をした、誰々と一緒にいる、こんな情報どや〜〜〜、という情報しかないな。
でも、人間ってこんなもんだし、知っている人のそんな側面を見て/見せて満足する世界だからこそ楽しいんだろうな。
と思えてきた。
そして徐々に、同じような情報が一方的に流れてくる世界へと突入して、広告が増えて、面白味にかけ出した。
何よりも、誕生日という存在を不毛に感じるようになってしまった。
むかしむかし、ともだち ひゃくにん できるかな♪
とかを歌っていたあの頃は、1クラス100人どころか40人には満たないようなコミュニティに属していたあの時代、誰々のお誕生日はすべて祝っても40/365くらいで、その中(もしくは外)でも誕生日を祝い会う中の友達なんて10人前後(寂しいけど)だった。
だから心から祝うような感じだった。
だけどFBが普及して、いろんな人と繋がって、300人くらいは普通に繋がっている様なコミュニティに属していると、ほぼ毎日誰かの誕生日を祝っている。「おめでとう」その言葉には、一応の心はこもっているものの、有り難みは大分減っているだろう。
そして1人おめでとうを言い忘れると、途端に申し訳無さがわいてくる。本来祝う心をもっているんだけれども、言わなくては行けないという状況がほぼ毎日続く。
毎日毎日、、、これはもうコミュニティとしてただ疲れるだけだ。そんなの気にしないでいいじゃん、とかいう感じなのかもしれないけれども、一応は知っている人がほとんどなFB、そんなわけには行かないのが個人的になところ。
だから、もう悶々としてくる。気持ち悪い。
実名で動く世界だからこそ、そこにはフラットという衣を被ったヒエラルキーが存在していることも気持ち悪い。
そしてFBも、人間関係をコンテンツに広告というビジネスに捕らわれた今、クリアな人間関係を築くという使命に全うなのだろうが、なんか気持ち悪いくらい広告がでるようになってきた。そうこれも気持ち悪い。
ただただ気持ち悪くなってきた。
でもFBは、いいね!ボタンで作られるワンボタンの興味結合の世界、気軽にやりとりできる(完全に廃れない限り)半永久的にアップデートされるアドレス帳は実に使いやすい。
昨今Lineが爆速的に普及しているのも、きっとこの気軽に使えて半永久的にアップデートされるアドレス帳が価値の高いものだと受け入れられているからだと思うが、Lineはかつてのmixiの様なコミュニティであって、弱い繋がりの頼れる繋がりは未だにFBの方が強い。
だからFBは退会したくない。
そんな感じの複雑な感情が入り混じって、今現在はクリップボードな記録デバイスとして主に使い、必要に応じてメッセージやグループでやりとりをする。そんな使い方になってしまっているFB。
誕生日という束縛から開放されるために、自分の誕生日を年以外非公開にして使っている。
FBに蓄積された人間関係と、興味関係。
この2つがある限り、FBはきっと使い続けるだろうなと思う今なのでした。
FBって気持ち悪くなっているけど、ライフライン化しちゃってるよね、はぁ、、という感情をただただ書き連ねただけの日記でした。